他者との違いが自己を生む

おはようございます
鍛治本です。

昨日、今日と所属している事務所アニモプロデュースの養成所でレッスンをやっている。

4月に入所したばかりのみんな。

お芝居で手取り足取り教えてあげられることってあんまりないと思っている。

そもそもが正解というものを持っている人がいないから。

でも、表現を生業にする以上、色んなルールや制約、要求の元にそれに応えていかなければいけないのは確かで、僕が出来るのは、それにどういう姿勢、順序で応えたらいいか、一緒に考えること。

具体的には、どんな感覚的なことでも、言語化してみるということ。

言語化すると、同じ言葉を使っていても、それぞれが感じてることや、その言葉に期待している役割が違うことに気付く。

その作業が、他者を発見する作業な気もしている。

演劇にとって他者は絶対に必要。

というか他者がいて自己が出現するんじゃないかと思う。

学生時代、まじめに勉強してきたとは言えないけど、学問って世の中の理(ことわり)を考える作業なんだなって、今になって思う。

そして、割とその作業を今楽しんでいる。

感覚を扱う「演技」という行動について、言葉を尽くすのは、野暮だと言う人もいるかもしれない。

でも、僕は、人からの感覚的な助言にどうも馴染めなかった。

きっと自分が不器用なせいだ。

だから、生徒のみんなにも頑張って言語化してもらいながら、僕も頑張って言語化する。

というか言語化出来ることしか極力扱わないようにしている。

言語化出来たら、判定が出来るようになる。

あとは、みんな各々で自分道を進めばいい。

あとは、言語化することで、責任を持ちたい。

「なんか良かった」「今のは面白くない」だけでは、自分の好みを出ないし、改善のしようがない。

僕は最初の10年それに困った。

はい、そう。不器用なせいです。

今なら何が良くなかったのか、分かる。

講師料をもらいながら、僕はこんなに楽しい勉強をさせてもらっていいのだろうか、と思いながら、今日もこれから夜までヘトヘトになってきます。

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