こんにちは
鍛治本です
ワークショップや養成所で、抱えている悩みを聞いてみることがある。
そこでかなりの確率でトップに鎮座するのは「人見知りな性格を何とかしたい」という悩み。
僕は、「便利な単語は疑ってかかれ!党」の党首なので(ん?)、「人見知り」というみんなが現象を想像しやすい便利な言葉は、真っ先にバラバラに解体したくなる。
まずは「人見知り」ってどんな状態だってとこから。
まずは、辞書で調べてみよう。
『人見知りとは、子どもなどが、知らない人を見て、恥ずかしがったり、嫌ったりすること。』
なるほど。
でも、子供で自分に対して、「あたち、ひとみしりなの」って言っているのをあまり見たことがない。
大人の方が、この悩みを打ち明ける人が多いし、子供に対して使うときでも、大人が「この子人見知りが激しくて」と使うことが多い。
もう一つここで、注目しておいてもらいたいのは、「人見知り」とは本来「性格」ではなく「行動(もしくは現象)」であるということ。
「知らない人を見て、恥ずかしがったり、嫌ったりする」って、よく考えたら、誰でも一度は経験しているんじゃないだろか。
その回数が人より多いと、「あなたって人見知りが激しいね」と大人、もしくは他人から言われるようになる。
これは、「人見知り」以外の性格についても言えることなんだけど、「性格」なんて実は、存在しないと思ってる。
そういう傾向の「行動」回数が、若干多めというだけに過ぎない。
つまり性格認定は持って生まれた性質ではなくて「行動」の傾向を指しているだけ。
元々は、きっと偶発的な何かで、その行動回数が多かっただけで、それを他人から指摘されることで、意識して、その行動を強化し始めてしまう。
(もちろん、幼少期の環境や、強いトラウマなどが関係している場合もあります。今は一般的な話をしていることにご留意下さい。)
じゃあ、子供に対して大人が使っているはずの「人見知り」認定をいつから人は自分に対して使い始めるのか。
あくまでも僕の統計と僕の感覚なので、常に話半分で聞いて欲しいんだけど、思春期の青年男女で使っている人もあまり見かけない。
心の中で思っているかもしれないけど、自分は人見知りだって言葉にすることは少ない気がする。
大人に圧倒的に多い。
これはなぜなんだろう。
そう表明すると、コミュニケーションのハードルが下がるからだと思う。
人見知りならしょうがないかって思ってもらえるからね。
そうなんだけど、自分で表明することで、より一層その傾向は強化されてしまう。子供の頃に他人から言われたことを今度は自分自身でやってしまっているてなわけ。
で、その悩みをどうにかしたいと言われた時の僕の答えは、「人見知り認定をやめる」ことと、「行動を変える」こと。
初めて会う人に、恥ずかしがらずに話しかけたら、一瞬で人見知りは卒業できる。
おいおい、それができないから悩んでるんだろうが!というお叱りが飛んで来そうだけど、
それが出来ないのは、話しかけて無視されたらどうしよう、笑われたらどうしよう、怒られたらどうしよう、自分が否定されたらどうしよう、上手くいかなかったらどうしようって恐れですよね(いきなりの敬語)
でも、最初、コミュニケーションが上手くいかないのは当然です。
だってお互いよく知らないから、怖いもんね。
上手くいかないのはあなたのせいじゃないし、上手くいかなくてもあなたの存在は一個も傷つかない。むしろ上手くいかないという結果を引っ張り出したあなたグッジョブってことでしかない。
もし、何回トライしても関係が築けない相手だったら、離れればいいだけ。
それはあなたの問題じゃない。(友達は選んでいい(スネ夫の母))
僕のワークショップでは、誰かの失敗を笑うような人は僕が参加をお断りしているので、存分に行動できるよ(定期宣伝)
人間は傷つきやすい。
僕もよく枕を涙で濡らす(ん?)
でもだから面白いと思う今日この頃です。